琺瑯紀行 吉浦(広島)

▼午前中広行電車が吉浦を通過したとき、車窓から駅前に渋いアーケード商店街が見えたので仁方からの帰り夕暮れの迫る吉浦駅で途中下車してみた。

▼吉浦駅の背後には山が迫っている。アーケード商店街は山の斜面に密集する民家へ向かう坂道の入口にあった。この時間はお買い物のピークタイムのはずだが、昭和感に溢れた商店街には人通りほなく寂れ果てていた。(そこが良い!)

▼商店街を通り抜け、何か面白いものがないかとあちこち路地をうろつく。(左)松田ひちやの看板 「しち」ではなく「ひち」となっているのが面白い(中)たばこ看板は珍しくないがフイリップモリス広告は初見参(右)「とびだしちゅうい」のイラスト付標識 石屋さんの寄贈と言うのが何となく・・琺瑯看板は何かありそうな気がしたが見つかったのは「たばこ」のみだった。

▼「うまい酒水龍」醸造元は中野光次郎本店。

▼C62の牽く列車が吉浦駅ホームに進入する半世紀前の光景、ホームの柱に括りつけられたたばこの灰殻入れには吉浦の名酒「水龍」の広告が付けられている。JRのホームが全面禁煙になって久しい。今や蒸気機関車だけでなくホームの吸い殻入れも過去のものとなった。

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琺瑯紀行 安芸幸崎(広島)、仁方(広島)

▼次は安芸幸崎へ向かう。大分県にも幸崎と言う地名があるが、ここは「こうざき」ではなく「さいざき」と発音する。幸崎は昔からの漁港で古い町並みが残っているようなので期待したが・・

▼駅を出て竹原寄りに10分ばかり歩くとそれらしい集落が現れた。う~ん確かに古民家が軒を連ねているが、大半がきれいに改修されているので、さびれた感じが伝わらずイマイチ面白くない。

▼(左)2階建ての洋館があった。この町出身の高名な彫金家「清水南山」の記念館らしいが、当方芸術関係はまるで疎いので「清水南山」のことは何も知らない。(右)民家の軒下に醤油の看板を見つけるも残念ながら琺瑯ではなかった。安芸幸崎では1時間半ぐらいあちこちうろついたが、面白いものは何も見つからなかった。

▼14時25分発の電車で仁方までバックする。国鉄時代はここから四国連絡の仁堀航路の連絡船が出ていた。無人駅だがなかなか良い雰囲気の木造駅舎だ。

▼駅前には古い木造住宅もいくつか残っていた。民家然とした公衆浴場「一乃湯」看板は出ているがまだやっているのか?

▼「キッコーマン」と「ハイアース」。色あせた2枚の琺瑯看板を見つけた。水原弘のハイアースは由美かおるのアース蚊取り線香と並んで今やレトロ酒場のインテリアとして定番のアイテムだが、実際に屋外に貼られているのを見つけたのは初めてだ。(煙を追いかけていたころはこの看板どこにでも目にし珍しくもなんともなかったのだがね)

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琺瑯紀行 安芸津(広島)

▼改めて時刻表をチェックすると、呉線は全線直通列車はなく、広を起点として列車の運行は二分されていることがわかった。運転本数は広島通勤圏の広、広島間は多いが、ローカル区間である広、三原間はぐっと少なくなる。安芸津→安芸幸崎→仁方→吉浦と回ることにした。

▼広で11時20分発三原行に乗り換える。この駅は思い出のある駅だが、架線の張られた構内には昔の面影は全くなかった。黄色い2両編成の三原行は味気ないロングシートでがっかり、これではローカル線の旅は楽しめない。

▼11時56分安芸津に到着。安芸津は瀬戸内海に面した港町でもとは豊田郡安芸津町だったが、平成の大合併で東広島市に吸収されている。駅前から海側にかけて古い町並みが残っていたとのことだが再開発のためところどころ家は壊され更地になっていた。

▼曲がりくねった通りに商店が軒を連ねているが、人気はなくほとんどの店はシャッターを下ろしていた。

▼おお琺瑯看板がぶら下がっている家がある、今は民家だが、玄関戸の上に「自転車商」のプレートが貼られているので、昔は自転車屋だったに違いない。

▼それにしてもぶら下がっている看板がニチリン、サンライト、ノーリツとレアモノだらけなのはうれしい。

▼ノーリツ号は名古屋に本社があった岡本工業株式会社のブランド、この会社戦前は自転車やサイドカーを陸軍に納入、自動車まで製造していたとのことだ。玄関わきのガスボンベの脇に株式会社名古屋自転車製作所のアスター号自転車の琺瑯看板が隠れているのを見つけた。右書きの「堅牢無比」からすると戦前モノか?

▼この町は竹原と並んで醸造業の盛んだったところで造り酒屋が残っていた。その一つ、今田本店の店先を覗くと、ここで造られる「清酒富久長フクチョー」の琺瑯看板が立てかけてあった。

▼安芸津は思いのほか昭和の残り香が漂う街だった。琺瑯看板の収穫も大だったので満足した。

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琺瑯紀行 呉線の思い出②

▼広と広島間には朝夕にC59、C62の牽く通勤列車が何本も設定されていた。この区間は景色は決してよいとは言えないし、電柱がうるさいが朝日を浴びて次々に大型蒸機がやってくる光景は呉線ならではで撮影効率は抜群だった。

▼安芸阿賀の鉄橋を行くC62の牽く広島行。

▼呉市内を行く広島行、道路わきにスバル360が駐車している。

▼朝の広駅は広島行の通勤列車が並んで壮観だった。広発6.15、6.29、6.43、7.00、7.28とすべて蒸機牽引、この光景を撮るためには前日呉に泊まり早朝タクシーで駆けつけるしかないが、当時は金がなく宿に泊まることはできない。なんとしても撮りたいので、広駅近くの公園のベンチに横になり夜を明かした。翌朝意気揚々と駅に向かい1枚シャッターを切ったところで、駅員から見つかったのだ。「構内は危険なので早く出なさい」ときつく注意され構内から退去せざるを得なかった。

▼半年後再トライするも、またもや立ち入り厳禁で悔し涙を飲む、(ホームから撮らざるを得なかった)この時から30年後、中国の包頭で包頭環状線のJS牽引4列車の並びを撮りようやく留飲を下げることができた。

▼撮影は昭和43年4月、ボンネットトラックやオート三輪がバリバリ現役だったころ。

▼小屋浦、天応付近(たぶん)には短いトンネルがあった。C59 かC62を期待したのにD51が来るとがっかりだった。

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琺瑯紀行 呉線の思い出①

▼呉線で途中下車しながら安芸幸崎まで行くことにした。呉線は4年前に三原から竹原まで乗ったが、広島側から入るのは煙が消えて以来なので半世紀ぶりか。電車が広島を出るとすぐ車窓に懐かしい大踏切と跨線橋が見えてきた。

▼半世紀前、実家で過ごした休暇が終わって須磨の下宿に戻る時、いつも乗るのは山陽本線の夜行普通列車、門司発大阪行226列車だった。226列車の厚狭駅発は0時39分、もうバスはないので、たいていは22時ころに家(駅から4㎞離れていた)を出て夜道を駅まで歩いた。国道は未舗装で交通量も少なく暗かった。当時厚狭駅前には1軒映画館(3本立て75円!)があり、映画を見て時間をつぶす手もあったが、最終回は9時過ぎに終了なので、それからの時間をつぶすのに困り映画館の利用は1回でやめた。

▼がらがらの夜行列車ではボックスを占領してL字になることができた。徳山、下松、光と臨海部に広がるコンビナートの光がとプラントの煙突から噴き出す幻想的な炎を眺めているうちに眠りにつく。5時26分広島到着。眠い目をこすり下車、呉線に乗り換え蒸機撮影に向かうのが常だった。

▼C59牽引の呉線列車が広島に到着、遠くに跨線橋が見える。

▼跨線橋の向こうに機関区があった。C59やC62、D51に交じって可部線のC11や芸備線のC58もいた。構内立ち入り自由、あちこちうろついても何にも咎められないという夢のような時代。

▼あの時と目的は違うが、半世紀を隔てて呉線にまた乗るかと思うと胸がいっぱいになる。

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琺瑯紀行 可部(広島)

▼当初は芸備線で三次に行く計画だったが、昨年の豪雨による不通区間の復旧工事が完成しておらず、列車では三次に行けないことが分かったので、三次はやめ可部へ向かうことにした。

▼可部線に乗るのは今回が初めてだ。ここはたしかC11が貨物列車を牽いていたはずだが、蒸機時代の広島行は呉線のC59やC62を撮るのが目的で可部線のC11は眼中にはなかった。7時前に広島をでると電車は朝霧の立ち込める太田川に沿って北上する。この線駅の数だけはやたら多く発車したかと思うとすぐ停車する。7時43分可部到着、終点は一昨年に延長工事が完成した2つ先のあき亀山だがここで下車する。

▼可部はかっては陰陽を結ぶ街道の要所として栄えた町(今の行政単位は広島市安佐北区)で街道の両側にはぽつんぽつんと古い民家や商家が残っている。車社会が到来する前は情緒ある街だったに違いないが、今は交通量も多く、狭い道をひっきりなしに通勤?の車が行きかうのでまったく落ち着かない。

▼昭和を感じさせる建物も何軒か残っている。新聞店は建て替えられ中国新聞の琺瑯看板は捨てられていた。

▼ライオン像が埋め込まれたシゲタ写真館は今も現役。古い建物をリノベーションした戸田歯科医院。

 

▼造り酒屋が数軒あった。店先に清酒の琺瑯看板の1枚か2枚、ぶら下がっていてもおかしくないがなかった。

▼きれいに改修された木造建物群、こんなにピカピカだとちと面白くない。

▼やっと米屋の軒下で「たばこ」看板を見つけた。朝の可部街歩きは面白かったが琺瑯看板の収穫はたったこれだけ。

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琺瑯紀行 岩国(山口)、大竹、玖波、宮内串戸(広島)

▼新山口からの帰路、岡山まで在来線に乗ることにした。山陽本線の在来線は新幹線開通前は帰省や九州へ行く時、何度も利用したがこのところはずっとご無沙汰だった。車窓からの景色を楽しむだけでなく、いくつかの駅で下車して街を歩いてみることにした。

▼10時4分岩国行各停で新山口を出発する。クロスシートに腰掛けぼんやり外の景色を眺めていると前席のおばちゃんが話しかけてきた。「青春18きっぷ」で1人旅を続けているそうだ、典型的なおしゃべり好きの大阪のおばちゃんで、あれやこれや相手をしているうちに終点岩国が近づいてきた。ロングシートの電車ではこうはいかないだろうね。一瞬ちらっと車窓に四角いミツカン酢の琺瑯看板が見えた。これは押さえねばと岩国で下車し線路沿いの道をバックする。電車から見かけた琺瑯看板が貼られた小屋までは思いのほか距離があった。ミツカン酢のこの看板、見つけたのはこれで3枚目。

▼岩国で昼飯を済ませ、13時56分の広島行に乗り大竹で下車した。大竹は広島県最西端の町だ。ここの港=大竹港は戦後の一時期外地(主として南方)からの引揚港で、リュック一つで基隆から引揚げ大竹に上陸した話はこれまで老母から何度も聞かされていた。港には人影はなく晴れた瀬戸内海の海が穏やかに広がっていた。昭和21年大混乱の中大勢の引揚者に交じって老母はここで下船し故国の土を踏んだのかと思うと感慨深いものがあった。

▼大竹港から、玖波まで国道を歩く。玖波駅付近には古い町並みが残っており、いい雰囲気だったが、琺瑯看板は定番のたばこしか見つけられなかった。

▼玖波から16時ちょうどの広島行各停に乗り宮内串戸で下車、広島電鉄宮島線の地御前電停まで歩く。電停から国道を渡り海のほうに歩くと対岸の宮島が夕ぐれにかすんでいた。

▼この辺りは旧道沿いに木造民家が残っているが、広島に近いだけあって、かなり開発が進んでおり、建て替え住宅や更地も多かった。

▼あちこちうろつくがめぼしいものは発見できなかった。これは醤油の製造工場?「岡野醤油醸造所」の看板は出ているがすでに廃業しているようだ。琺瑯製の「二日市保健所管内食品衛生協力会員証」。

▼宮内串戸から広島へ、この日は広島泊りだ。路面電車が懐かしい。

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