消えた木造アーケード市場

▼せっかく鶴見に来たので鶴見線の国道駅を再訪し、すぐ近くの稲荷市場をのぞいてみることにした。国道駅は3年ぶりだが、以前に比べ営業中の店は減った気がする。それにしてもとても首都圏の駅とは思えないここだけ時間が停まったような光景は変化なしだ。(黒澤明の「野良犬」はここでロケしたとのことだが真偽は不明)

▼今なお木造アーケードと言う稲荷市場は3年前は時間の関係で立ち寄れなかった。google mapを頼りに国道駅から10分くらい歩くが、すでに市場は看板を下ろし閉鎖していることが分かった。残念遅かったと悔やんだがシャッターの一部が半分開いていたので入ってみた。

▼中には古色蒼然とした木造アーケードの市場がひっそり封印されていた。客はいないが店の二階は住居になっているので人の話し声が聞こえる。あたりをうろうろしていたら奥から爺様が顔を出した。声をかけるとこの市場で食料品屋をやっていたお方で2年前に市場が閉鎖となったので廃業したとのことだった。この爺様、地の人で話好きだった。「この市場ができたのは昭和32年だ、なぜ稲荷市場っていうのかって、それゃ稲荷神社の境内に建ったからさ、あのころはスーパーもコンビニもない時代だったから毎日すごい客が来てね市場の前は行列ができて、買い物客の整理に警察官まで来たよ・・」と古き良き時代の思い出をあれこれ聞かせていただく。

▼爺様は終戦の時戦争はまだ7歳で、5月の横浜大空襲でこの辺りが焼け野原になったこともよく覚えておられた。最後に市場の後の稲荷神社に案内していただいた。「市場が閉鎖したのは客が来なくなったからだけでなく、建物が老朽化したので防災上のこともあるね、店の跡継ぎもいなくなったし・・」と寂しそうだった。稲荷市場はタッチの差で現役時代の姿を見ることができなかった。ともかくこれで昭和の遺構が一つ消えたことだけは確かだ。

・稲荷市場は稲荷神社の境内に建っている。外から見るとまるで2階建ての木造アパート、内部に市場が隠れているとは思えない。

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今昔比較 鶴見駅のホームから

▼昭和45年9月1日土曜日、薄曇りのじっとりと汗ばむ暑い日だった。終業チャイム(当時土曜日は半ドン)を待ちかね、オフィスを出ると有楽町駅に直行する。高島貨物線の無煙化が1か月後に迫っており鶴見川の鉄橋で最後のD51を狙おうという算段である。電車が鶴見駅に着くとD51の貨物列車が海寄りの貨物線を盛んに行き来しているのが見えたので何枚かシャッターを切った。半世紀後、ネガをスキャンし同じ場所に立ってみた。

▼(横浜方面の風景)ホームドアなんてものはなかったので線路がよく見渡せた。京浜東北線東神奈川行電車の向こうを横浜方向からのD51貨物が通過する。

▼駅ビル(CIAL TSURUMI)の横にマンションが建ったり、手前の線路をまたぐ東西自由通路がガラス張りになったりしているが風景はほとんど変わっていない。

▼(正面海側の風景)駅周辺の再開発は進んでおらず、安ホテルやマージャン屋の入った雑居ビルがごちゃごちゃ立ち並んでいた。ホテルの看板を拡大してみると「1泊お一人様500円より」とあるのが面白い。ビジネスホテルが普及する前の時代だった。ホームの柱に琺瑯の駅名表示板とくず入れ缶が括り付けてあるのが懐かしい。                                 

▼今では再開発が終わり老巧化した建物は一掃され瀟洒なマンションやビルに替わった。線路わきの立て看板もなくなり昔の面影はない。

▼(東京面の風景)ホームのすぐ向こうを蒸気機関車が行き来しているのに皆さん無関心だ。蒸機と言っても珍しくもないD51なので、鉄道フアンの姿もない。ベンチのそばで下校途中の女子高生たちが談笑していたが、彼女たちも今や老境の域か?

▼ホームの椅子は木製のロングベンチから個別プラスチックになった。天井からぶら下がっていた行灯式の行き先案内板はもうない。背後の風景は一変している。

▼今回はgoogle street view ではなく、実際にスキャンした画像をスマホに取り込んで実際に現場で確認したので変化がよくわかった。D51を撮った当時はホームの様子や背後の風景は全く意識していなかったが、今となっては機関車だけでなく無意識に写りこんだものが面白い。それにしてもあれから51年も経ったとは・・・

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五井駅跨線橋の琺瑯看板

▼内房線五井駅の木更津寄りホームには今は使われなくなった小湊鉄道に乗り換え用の古い跨線橋がある。この跨線橋に2枚の琺瑯看板が貼られているのに気が付いた。

▼この跨線橋は通行禁止なので小湊鉄道ホームから琺瑯看板に近づくことはできないが、内房線のホームからはよく見える。看板は「鳥海証券」と「カギサ醤油」、後で調べてみると両社ともすでに消えた地場の会社だと分かった。跨線橋は老巧化が進んでおりいつ取り壊されてもおかしくない状態なので、2枚の琺瑯看板の運命も長くはないだろう。それにしても首都圏のすぐ近くに塩タバコ以外のこんな看板が残っているのは驚きだった。

・古い木造の跨線橋に琺瑯看板はよく似合う。ここだけ昭和のかけらが残っている感じだ。

▼鳥海証券はいくつかの経緯を重ねたあと、現在では千葉銀行傘下の「ちばぎん証券」となっているが、カギサ醤油は君津にあった老舗で宮内庁御用達にもなった有力メーカーだったが完全に廃業している。この後訪れた久留里の骨董屋のショーウィンドウに古いブラウン管テレビの横に軒先からぶら下げるタイプの看板が展示してあった。

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昭和感漂う喫茶店

▼ある寂れた商店街に見るからに昭和感漂う喫茶店があった。店名は「TEA ROOM キャノン」(ただしヤは小文字)。歩くのに疲れたのでここで一服する。

▼店内の空気は昭和のままだ。インベーダーゲーム?が仕込まれたテーブルなんて久しく見たことがない。御高齢のマスター?が注文を取りに来た(ウエイトレスはいない)のでハンバーガーとコーラを注文する。気になった店名について尋ねてみると「実は昔は別の場所で同じような店をやってましてね、隣がカメラ屋だったのですよ、その店を閉じてここに移転したのですが、そのころのことを思って今の店名にしたのです」とのことだった。「TEA ROOM ニコン」や「TEA ROOM ミノルタ」ではイマイチぴんと来ないので「TEA ROOM キャノン」にしたようだった。

・内装は開業当時のまま(たぶん)ではないだろうか、マスターがなにもかも仕事は1人でこなしていた。

▼かっては一等地だったこの場所も商店街の衰退により今は昼間でもほとんど人通りがない。それにコロナが追い打ちをかけた感じだ。「もう商売ぱったりですよ」とマスターは嘆いておられたが、チェーン店の対極にあるこんな味わい深い喫茶店、いつまでも生き残って欲しいものだ。

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津田沼駅ホームの市境線

▼先日内房方面に出かけた際、ふとnetで見た「津田沼駅のホームに船橋市と習志野市の市境が引かれている」という記事が頭に浮かんできたので津田沼でおりて自分の目で確認することにした。市境線はすぐに見つかった。黄色い点字ブロックから、斜めに伸びている黄色の破線がそれだ。この線から東京側が船橋市、千葉側(階段側)が習志野市に属していると言うわけだ。「あなたは何市で電車を待つ?」なんてフレーズが付いていることからして実務上必要と言うより、面白さを狙ったものに違いない。

▼地図でチェックすると津田沼駅は船橋市との境に位置しており、駅の一部は船橋市に属している。なぜこんなことになっているのだろうか。かっての津田沼は小駅で駅、ホーム共完全に習志野(当時の津田沼町)側にあったのだが、駅周辺の急激な開発により駅も拡大され、一部が船橋側に食い込む形になったのではないだろうかと思っていたが、どうもそうではないようだ。昔から津田沼駅は津田沼町と二宮町(戦後船橋市に編入)にまたがって存在したとの記述がある。?まあ利用者にとってはホームがどちらの市に属していても関係ないことだ。しばしたたずんでいたがこんな市境線に関心を払う人は誰もいなかった。

▼昭和7年軍郷習志野の時代の津田沼駅(今昔マップより)駅周辺には鉄道連隊関係の施設があるだけだ。(残念ながら津田沼町と二宮町の境界線はよくわからない)

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京城料理店

▼都内某所をぶらついていたら、色あせたトタンぶきの焼肉屋があった。店の様子からもう営業をやめてからかなり年月が経っている感じだが、おやっと思ったのは看板に「京城」と言う名前が使われていることだった。韓国料理でも朝鮮料理でもなく京城料理と言うのが今時珍しい。

・京城料理だけでなく栄養満点のキャッチフレーズや手書きの文字からも昭和感が漂う

▼独立後韓国の首都が植民地時代の「京城」をやめ、単にソウル(みやこの意、ハングル表記のみで漢字はない)と呼称されるようなったのは戦後まもなくだが、日本でソウルが定着したのは昭和40年代(たぶん)に入ってからではないだろうか。そんなに昔のことではない。高校か中学?時代韓国の首都は「けいじょう」、北鮮の首都は「へいじょう」と習った記憶がある。手元にある当時の地図帳(帝国書院昭和38年1月刊)にもまだ京城が併記されている。ちなみに中華圏ではソウルには長い間李朝時代の旧称「漢城」をあてており、ようやく音通りに首爾 (簡体字は首尔)をあてるようになったのは2005年「ソウルの漢字表記は 首爾 にしてほしい」との韓国側からの提案に応えてからだ。当時北京に住んでいたので北京空港の行先表示が 漢城 から 首爾 に替わったのは新鮮だった。

・(左)一昔前の日本の地図帳には京城も併記されていた(右)現在中国では公式には 首爾 だが旧称の漢城も広く使われている。

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今昔比較 旧ソウル駅の大食堂

▼昭和50年8月、夏休みを利用して3回目(これが最後)の水仁線撮影旅行に出かけた。ソウル到着日の午後、水原に向う前にソウル駅の周辺をぶらついた。韓流ブームで観光客が押し寄せるのはずっと後のことで、通りでカメラを取り出すことはことは少し勇気がいる時代だった。今回スキャンしてみて街中の広告・看板はハングル一色ではなく、漢字も使用されているのが興味深かった。

・新聞掲示板に群がる人々を撮っていたら通行人に睨みつけられた。もちろん中央日報は中国国民党の機関紙ではなく韓国の新聞。

▼(左)大韓航空ビル、(右)美都波百貨店(旧京城丁子屋百貨店)外に出された広告は漢字で書かれているのでなので意味は一目瞭然。

▼スタンドで売られている雑誌類も表紙は漢字が多用されていた。

▼腹がすいたのでソウル駅で昼食をとることにした。赤煉瓦のソウル駅は旧鮮鉄の京城駅として建てられたものでまだパリパリの現役だった。2年前に来た時はヤードで蒸機(ミカサ)が入れ替えをしていたが、もうその姿はなかった。重厚な階段を上った2階にある大食堂は天井からシャンデリアがぶら下がる豪華なつくりだった。

▼目を引いたのは壁に掲げられていた大きな2枚の油絵だった。一枚は朝鮮鉄道建設時の様子、もう一枚は雪の中を行く蒸機列車が描かれていた。京城駅時代からのものか戦後描かれたものかわからないが、駅の食堂にはぴったりだなと思った。(上の部分拡大)

▼旧ソウル駅は廃駅となったが、文化財価値ありとして解体を免れ、現在では文化イベント施設として活用されているとのことだ。seoul navi https://www.seoulnavi.com/miru/1706/を覗くと大食堂の写真があった。キャプションには「どこからか食事を楽しむざわめきが聞こえてきそうです」とある。とは言え今はアート作品の展示場なのでテーブルも椅子も取り払われがらんどうの空間なのが寂しい。残念ながら45年前に見た2枚の絵はない。どこかで大切に保管されていると良いのだが・・

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今昔比較 油須原駅ホーム

▼筑豊が操業していた時代、田川線の石炭列車には伊田から油須原まで峠を越えるため補機がついていたため、これを目当てにサミットにほど近い油須原には何度も通った。筑豊が閉山してからは石炭列車はなくなり、田川線自体も今は平成筑豊鉄道として3セク化され、単行DCが走るだけの路線になっている。

▼50年前の昭和46年4月29日、九州蒸機撮影旅行時にも油須原を訪問している。C11の牽く行橋行旅客列車が油須原駅に到着したところを駅舎側から撮ったもの。客車は4両編成でホームにはそれなりの旅客がいる。

▼現在はどうなっているのだろう。360度google street viewで上とほぼ同じ場所からホームを眺めてみた。構内にあった3本の線路のうち真ん中の線路が撤去され、ホームに屋根付き待合室ができたほかは風景はさほど変わっていない。ただ駅員がいなくなったせいか全体的に寂れた感じがするし、線路内に雑草が生えていることから鉄道の凋落ぶりがうかがえる。(それにしても植物の成長ぶりには驚かされるが)

・画像は google street view から拝借、50年前(上)と風景にはさほど変化ない。

▼下2枚は50年前の 昭和46年4月29日 に撮影、風景は変わらないが鉄道はすっかり変わってしまった。

・ホームに下車した乗客は構内踏切を渡って改札口へ向かう。

・駅員がタブレットを機関士に手渡すとすぐに発車だ。

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今昔比較 ユニチカ中央病院

▼昭和46年4月3日奈良線の撮影に出かけた。奈良線はC58の牽く貨物列車しか走っていないので、全く食指は動かなかったのだが、貨物列車もDL化が近づいてきたので、行くだけは行っておこうかと思ったから次第だ。全線これと言った好スポットはなくあまり面白くなかったが、宇治駅で下車したことは覚えている。構内は広く、ここからユニチカ宇治工場へ専用線が分岐していた。

▼病院前でたたずむ奈良線のC58、線路のすぐそばに真新しいユニチカ中央病院があった。ニチボーと日本レーヨンが合併して総合繊維メーカー「ユニチカ」が誕生したのは訪問の2年前の昭和44年だった。 このユニチカ中央病院 は新会社誕生の翌昭和45年3月に竣工している。

▼長閑な春の午後。宇治駅のホームには桜の木が植えてあり、そよ風にピンクの花びらを散らせていた。

▼宇治駅やユニチカ中央病院の現状をチェックしてみたところ、あまりの変化に唖然とした。奈良線が電化されたり貨物列車が廃止されたのは知っていたが、駅も橋上駅となり(画像はwikipediaとgoogle 360 度streeet viewから拝借)昔の面影はまるでない。ホーム画像を見る限り近郊通勤線の駅と言った風情だ。

▼ユニチカ中央病院もなくなっていた。繊維不況によりユニチカの事業環境は悪化し工場規模の縮小とリストラを余儀なくされ中央病院 も閉鎖解体されたことが分かった。50年間の時の流れは重い。宇治駅は一変したが、あの日、あの時の光景はしっかりネガに刻まれている。

・ユニチカ中央病院を受け継ぐ形で旧工場用地内(たぶん)に宇治武田病院が発足している。☆が ユニチカ中央病院 があった場所(線路のすぐそばだった)

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今昔比較 花輪線田山駅前の木造家屋

▼コロナ禍で遠出がままならないので、この機会に撮りためたネガのスキャンに励むことにした。加齢とともに年々集中力は衰えてきているので、体力気力のある今のうちにやらないと永遠にスキャンはできなくなる恐れもあるからだ。ネガの大半は蒸機関係だがモニターで拡大すると画面の端々に無意識のうちに写りこんでいるモノが面白い。

▼昭和46年3月29日、早春の花輪線の86を撮りに出かけた。撮影が終わってDCで盛岡へ戻る途中、田山という山間の駅で貨物列車と交換のため数分間停車した。

▼これはその時撮ったもの。乗客が下車し構内踏切を渡ってしばらくすると盛岡方面から86の牽く貨物列車が入線してきた。まあなんてことはない光景だが、貨物列車ではなく右手に写っている木造家屋に所狭しと貼られた手書きの広告看板が面白い。

▼下左はこの部分を拡大したもの。当時こんなものには目もくれなかったが、古い木造建物や琺瑯看板ばかり追いかけている現在では大変気になる。可能なら時空を飛び越えてでも現場に行って確かめたいところだ。

▼田山駅の記憶はもう頭の片隅にもないが、駅やあの木造家屋が今どうなっているかwikipediaとgoogle street viewをチェックしてみた。下は50年後の田山駅(画像は wikipediaより拝借 )無人駅だが、まるでバス待合室のようだ。右手の便所(たぶん)だけは昔のままの大きさなのが可笑しかった。

▼360度 google street view で反対側から駅を見るとあの2階建ての木造家屋は現存していた。細部は改修されてはいるが、建物の形はほぼ50年前のままだ。ただし残念ながら肝心の看板はもう取り外されてない。それにしても50年前に比べ駅周辺は寂れ果て構内も荒廃した感じがする。貨物列車廃止とともに交換設備が撤去されただけでなく、過疎化や車の普及により鉄道の利用者が激減したためだろう。田山は駅近くにスキー場がありホームには案内板があった。 google street view にはホームに案内板が写っているが、今となってはスキー板を担いで花輪線に乗ってやってくる客なんてほとんどいないのではなかろうか。

・ かっては手書き広告が一面に貼られていた木造家屋(google street viewより)

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